雪の降る前

そしてまたいつのまにか —

岩間芳樹氏のこと

1930(昭和4)年、静岡県清水市生まれ・福島育ち

 — 1999(平成11)年6月13日没※ 

戦後の放送界の黎明期、ラジオドラマから脚本の執筆を開始。当時は早稲田大学在学中、

それから最晩年に至るまでラジオ・テレビや映画などの現場で、ドラマを書き続けた。

合唱曲への作詞は、昭和50年度(第42回)Nコン高校の部課題曲の「海はなかった」

をはじめ、昭和54年度(第45回)の「冬・風蓮湖」(高田三郎作曲)、平成3年度

(第58回)の「聞こえる」(新実徳英作曲)。 ※ともに高校の部課題曲 

最晩年の仕事は、浅田次郎原作・高倉健大竹しのぶ広末涼子ら出演の

映画「鉄道員(ぽっぽや)」の脚本だった。

(「鉄道員(ぽっぽや)」の劇場公開は1999年6月5日※)

【以下・引用は主に、

 1999年7月1日付け北海道新聞夕刊掲載の記事『岩間芳樹さんと「北」』より】

このコラム記事の執筆者は、元HBC常務でプロデューサーだった守分寿男さん。

岩間氏とは古くから、ドラマ制作の現場で長く関わってきた。

記事の冒頭、守分氏が街で何気なく手に取った雑誌(恐らく「鉄道員(ぽっぽや)」公開

にあたってのものだろう)、そこに岩間氏のコメント

 『北海道の戦後史を書きたい、そんな思いで「鉄道員(ぽっぽや)」のシナリオに

 取り組みました』とあった。その二日後に、岩間氏の訃報を知った、という。

岩間氏は、HBC制作(全国ネット)のドラマを始めとして、北海道を舞台とした作品の

脚本をいくつも書いている。

 【記事より】

「・・・(太平洋戦争)敗戦直後に鳴り物入りでクローズアップされた北海道が、産業構造

 の変化と都市集中化の波の中で、海辺に、内陸に、そして炭鉱にと、夥しい廃墟と廃屋を

 さらしていく姿」、そうしたことについて何度も守分氏と岩間氏は話し合った。

「福島で少年期を過ごした岩間さんにとって、明治維新で敗れた東北諸藩の人たちが辿った

 歴史が、敗戦後の多くの無名の日本人が辿ってきた道と重なり合って見えていたようだ」

 とも。

「それを岩間さんは「敗者の視座ですよ」と言って笑っていた。そうした視点から見つめる

 北の歴史は、日本の近代化の縮図だ、というのが彼の持論であった」

<「聞こえる」のこと>

 平成に入り3たびNコンのために岩間さんが書き下ろした曲(作曲は新実徳英

 この曲が書かれた平成の始めは、天安門事件(89年6月)ベルリンの壁崩壊(89年

 11月)から湾岸戦争(91年)まで、世界史に刻まれる事象が相次いで起こった。

 岩間さんは中国や(旧東独)東ベルリンの放送局との仕事も手がけている。

 この聞こえる、という曲中には「広場を埋めた群衆の叫び」「油泥の渚 翼なくした海鳥

 のうめき」「歩み寄る 手に手に花を 歳月こえて壁ごしに『歓喜の歌』が」

 というワードが歌詞にちりばめられている。

 これは当時繰り返し流された象徴的な「映像」である。世界がつながりリアルタイムで

 情報が飛び交い、今世界で起きている事が日本の茶の間でもわかるようになった、

 ということをもこの歌は示している。

 それに対比させるように、現代に生きる(若い)自分が(世界に対して)ひとり

 なにもできずにこの部屋で、ひざを抱えてうずくまっているいらだち・・。

 「なにができるか 教えてください」と

 自分を含めた世界に対し、大きく呼びかけるようにして、曲は終わる。

 【再び記事より】

筆者・守分氏はあるドラマでの思い出を語っている。TBS東芝日曜劇場「林檎の木の下で」

(1989年共同制作:HBC/中国遼寧省電視台)。

中国残留孤児とその親の出身地である北海道との、リンゴが橋渡しをした3世代にわたる

つながりを、実話を基に描いたドラマ。

 

「ドラマの準備のために訪れた北京・天安門広場は騒然としていた。そこでドラマの中国側

 スタッフの子供(子息)が、デモに参加していることを知った。

 中国から日本にロケの現場を移した直後に、広場への武力介入が起きる。徹夜でテレビを

 見つめて、真っ赤な目で言葉を失っている中国のスタッフを、同じく無言で、

 涙ぐみながら慰めていた岩間さんの姿が焼き付いている」、

 守分氏はこの話題を記事の終わり近くで触れている。

<まとめ>

ドラマを描く上で資料収集の熱意や方法、歴史的資料の考え方は、ドキュメンタリストとして。

内心では、敗者からの視点を常に忘れなかった、ヒューマニスト。といえるのではないか。

大震災を経た、現在の日本(と世界)が、岩間芳樹さんがもしご存命だったとしたら

その目にはどういうふうに映るのだろう? それを思わずにいられない。