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雪の降る前

そしてまたいつのまにか —

札幌市民会館 − バーンスタインの事など

2007年春ころのある日、大通公園に面するデパートの上階でランチをしていたら、解体中の札幌市民会館が目に入ってきた。工事は覆いがかけられ会館のそばに近づいても中の様子は見えないのだが、その日そのレストランからは角度的にぴったりで、ホールの外郭がほぼ崩され中のステージがまだ健在な様子も垣間見えた。

ショックだった。高校時代から慣れ親しみ、アーティストのコンサートにもいくつも行ったし、今所属している

合唱団である「さっこん」の演奏を初めて耳にした場所もここだ。

以下の文章は、まだ市民会館ホール自体がフルに稼働し、市民合唱祭やコンクールも開かれていた2003年頃

に書いたもの。当時はまだ取り壊されるなどとは夢にも思っていなかった。なお、現在は同じ場所(跡地)に「札幌市民ホール」というあまり特徴のないホールができている。2010年のコーラスワークショップはそこで開催された。

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1.札幌市民会館、その成り立ち

 札幌市民会館の歴史は、「豊平館」という古い由緒ある建物と深く関係しています。明治13年建築の豊平館

かつて大通西1丁目、現在の市民会館の場所にありました。昭和2年、豊平館の裏側(北1条側)に接続して、

鉄筋コンクリート2階建および木造平屋建716坪の「公会堂」が落成。豊平館中島公園の現在の場所

キタラ前)に移築される際、公会堂は取り壊され、昭和33年6月、現在の市民会館が落成しました。

豊平館の歴史は、北海道および札幌の音楽の黎明期を語るとき、欠かせません。また札幌の合唱が発展する上で

とても重要な役割を担った「札幌混声合唱団」(昭和5年に誕生、昭和18年まで活動)も豊平館の歴史の中で登場します。<…地元で発行された「札幌の合唱」という本には、『平成の現在の「札幌混声合唱団」は、当時の

札幌混声合唱団とは無関係』と、バッチリ注釈が付けられています(それは確かにそうなんだけど。)でも、

志とか、通じるものもあると思いたい!(願望)

これらの、豊平館と「元祖」札幌混声合唱団にまつわるお話は、また改めて書きたいと思っています。>

2.「汽車」と「マック」と「学園グリー」

  札幌市「以外」で中高生生活を送った人には分かってもらえるはず。地元から、札幌まで汽車で行くと当時

片道で五、六百円かかり、ご飯も食べてとなると高校生の財布には辛いものがあった。そこで札幌の主要な

演奏会の際には、部活で賛同者を募って顧問の先生に添乗をお願いし、交通費は「学割団体料金!」という手を

使っていました(確か10名以上、だったか?)大人通常の7から8割引くらいにはなった。この手で

私達は、札幌アカデミー、札女(さつじょ=旧札幌女声合唱団)、北大、北海学園グリーなど結構聞きに

行きました。これも顧問の長枝明彦先生のおかげです。が、私、長枝先生の出身校である北大合唱団の演奏会

にはついに行かなかったのです。深い理由はなく、たまたまなのですが。ごめんなさい長枝先生、今頃ですが。

僕が北大現役のステージを初めて聞いたのは大阪ででした。北大を避けていたのではなくて、きっと

最初に聞いた学園グリーの音色に魅せられてしまった、のだと思います。

 1985年、函館での北海道コンクール、間宮のコンポジション6番が初めて聞いた学園グリーの演奏。指揮は

大畑耕一先生。出身高校の合唱部はその前年に同じ間宮の「北国の二つの歌」で全日本コンクール大阪大会まで

進んでいて(私はまだ中学3年生)、先輩たちの演奏を聴いていたので、親近感があった。この「コンポ6番」

は、超有名な男声の「3番」に比べるとあまり演奏されませんが、作曲者曰く「民族的なポリフォニーの可能性

への第一の着手」。間宮の音楽は民俗音楽という枠でくくられがちで確かに各地で収集した民謡がベースに

なってはいますが、これはR.Vaughan=WilliamsやZ.Kodalyが追求した普遍性を持つグローバルな意味での

民族音楽」と言えます。特に第1楽章の美しさ!学園グリーの透明感のある声と豊かなハーモニーによって

演奏されると、日本にも昔からこんなポリフォニーがあったかのような、安らぎ感が広がり、dim.の中で

「p」でうたう「囃し言葉」にさえ、うっとりと聞き惚れていました。

 その後、札幌市民会館での学園グリーの演奏会で「草野心平の詩から」「青いメッセージ」といった

男声合唱のイキの良いレパートリーを生で体験しました。市民会館も毎回満杯で、早くから並んで入場しました。

そしてお腹が空くので地下街で買ったファストフードを開演前のロビーでパクつく。

(→なんであの頃、あんなに食べたかったのだろう?)

 食べるといえば、ここ市民会館の食堂は現在は雪印パーラーの経営です。雪印は一時のイメージダウンが

あったとはいえ、それでも内地人には「アイスクリームの殿堂」。京都での学生時代、大学の部で関西代表

として札幌の全国大会行きが決まった時、女声部の一部が早速「雪印パーラー詣で」を行程に入れていたのには

驚いた。(それは駅前通り本店。市民会館食堂はその出張所?みたいなものか。)

[巷の市民会館食堂のイメージ]といえば「安いだけ」「高くてあまり美味しくない」「値段も味もまあまあだが

メニューが全然ない」などが代表的。その中では立派なほうだと思います。観光客の方には、大通を訪れた

ついでに寄れば意外と穴場かも。この間なんか歌い終わってすぐ、舞台を降りて5分後にビールも飲めました。

(...市民祭関係者の方、ゴメンナサイ。)

 昭和30年代から数多くの名演奏が行われたこの舞台、さまざまな音色が壁に溶け込んでいるような気がします。

確かに教育文化会館のほうが歌いやすいし、客席からも見やすい。市民会館の舞台から見た客席の上のほうの空間は暗くて遠い夜空のように暗黒で、でもそこに「えいやぁ」って声を皆で放り込む感じこそ、ここの大ホールで歌う醍醐味かもしれません。

3.「I love two things... .  Music, and People.」

 ここに1本のビデオがあります。1990年7月3日、札幌市民会館でのコンサートライブ

シューマン交響曲第2番ハ長調)とリハーサル、タイトルは

LEONARD BERNSTEIN / THE LAST MESSAGE」。

20世紀のクラシック界をカラヤンと共にリードしたバーンスタインが、最期のエネルギーを注いだ第1回PMF

そのメインといえるPMFオーケストラの演奏会が札幌市民会館で開かれたのです。

いかにバーンスタインが悲壮な覚悟でこのコンサートに向かっていたかは「バーンスタインの生涯」という本に詳しく記されています。それによれば、

千歳空港に着いた直後から彼は、空港待ち合いの椅子に横になるようなさまで、宿舎のニドムクラシックゴルフコース(→バーンスタインの館、という名称が後日付けられ今では結婚式も開かれる)では、実のところ

常にベッドで安静にせざるを得ない状態でした。持病の悪化は、もはや不治の段階まで至っていました。

(すでにこの年の春、肺腫瘍を診断されていた。) 

 (*このビデオはリハーサル部分に音楽の「宝物」がいっぱい詰まっていると思わせるのですが、)

しかし、練習場で見せるバーンスタインは、若者たちのエネルギーによって、というよりむしろ若者たちを

鼓舞し自らの生のエネルギーで音楽へとぐいぐい引っ張っていく、お馴染みのバーンスタインの姿です。

時には若者たちから贈られたプレゼント(かなりファンキーでかつ良く似合う、シャツ)を着て相好を崩す、

好々爺ぶりも見せています。

しかしそれはバーンスタインの覚悟、を伴った最期の輝きだったのです。

その事実を知った時、彼の「神が私に与えた最後のエネルギーと時間を若者の教育のために捧げる」と言う言葉

(開会時のあいさつ)を聞くと、胸がつまります。

実際、この後予定していた首都圏のコンサート2回は不本意のうちに終わり(残りはキャンセル)、

アメリカに帰り1度だけ振った本番は精彩を欠いていた。そして天に召されたのは10月14日。

彼が魂を込める事ができた生涯最後の演奏は、ここ札幌ででした。

 その本番のビデオ、客席を捉える画面の上方に黒い空間が見えます。

・・?そう!札幌市民会館は、この当代随一のマエストロの(日本でなく)世界で最後の生きた演奏の場に、

空席を作ってしまったのです。この事は当時学生で京都在住だった僕もたまたま耳にし、

(札幌市民には申し訳ないが)「何やってんだ!札幌!」と感じた記憶があります。世界中の彼のファンから「Sapporo」の名は不名誉に語り継がれるのではないか、と。しかしそんなことはありませんでした。

当初予定地の北京が天安門事件の影響から急きょ札幌に変わったこと、準備不足と告知不足、実行委と

バーンスタインのマネージ側とのあつれきなど「第1回」に伴う混乱が空席を生み出した原因だったとは

後で知りました。

 近年の、キタラ大ホールを毎回満席で埋め尽くす、PMFオーケストラの演奏会をもし彼が見たらどんなにか

喜ぶことでしょう。ここに至るまでには、もちろん地元実行委の努力、大植英次佐渡裕ウィーンフィル

メンバーやバーンスタインの遺志を継いだキャスト・スタッフたちの功績、それからスポンサーの継続的な

支援があったことは言うまでもありません。このビデオは一度廃盤になりましたが、2002年DVDで再発売され、

貴重な演奏を見ることができます。

 <以上、2003年春に記す>

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(現在に戻る)

なおこの再発売されたDVDも、その後絶版に。現在では上記で述べた「リハーサル部分」のみを収録した

新たなDVDとして発売されており、バーンスタインの最期の輝きを今でも目にする事ができる。

バーンスタイン/与えるよろこび The Last Date in Sapporo 1990 [DVD]」(2010年9月発売)

今改めてビデオの解説書を読むと(解説:門馬直美)、このシューマンの第2交響曲の性格について

『いわば、これは、暗黒から光明へ向かおうとするシューマン自身の闘争記である。』

と記している。

上記の文、私が3章めのタイトルにした「バーンスタインが若者に向けたメッセージ」や

本編のリハーサル中に、第3楽章のAdagioのレッスンで発した言葉

『みなさん、今のが、音楽です』 “This, is the Music, ” (『ただ拍を刻むのでなく。』と続く)

など。この映像中至る所から拾うことのできるこれ等の言葉は、

今も私の胸に「宝物」として刻まれている。音楽をするすべての人に、

リハ部分だけの映像で充分に見る価値があるのでは、と思われる。