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雪の降る前

そしてまたいつのまにか —

人間の顔 から 雪の夜 へ

近年福島の中学の合唱団が、プーランクで素晴らしい演奏をしており、

まして今年は「人間の顔」にトライしている、と聞いて心が動いた。

以下は、所属する合唱団で2年前、プーランクの「ある雪の夜」を演奏したときに

書いた文章からの抜粋をメインに加筆したもの。

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<『プーランクの歌と「言葉」のヒミツ』>

「・・・彼は何よりも詩人の声の響きに敏感であった

というべきではないだろうか。とりわけ彼は「半ば皮肉で半ばメランコリックな」

ギヨーム・アポリネールの声によく耳を傾けた」

(作品について ルノー・マシャール[訳:安部美香子])

【sop.ナタリー・シュトゥッツマン CD「プーランク歌曲集」ブックレットより】 

プーランクを演奏する、それもフランス語で!という気概がある方に、お勧めするのは

混声合唱のための「7つの歌(Sept Chansons)」』。

「8つの民謡」というフランス語の曲もあり楽しいのだが、編曲集に近い。

混声合唱、そしてプーランクのエスプリを存分に楽しめる、もちろん歯ごたえもある7曲は

そのうち2曲がアポリネールの詩、残り5曲がエリュアールの詩によっている。

アポリネールの詩による2曲、

「白い雪(La blanche neige)」は

Les anges:天使たち、という印象的な呼びかけで始まる。ユーモラスな詩の背後で

ハーモニーはメランコリックに動きまわる。この曲を歌いながら自分は、故郷の道央に降る

おおきな雪(静かに降り積もる、ぼたん雪)を思った。

「マリー(Marie)」は、

アポリネールが恋人(であった)画家マリー・ローランサンのことをうたった詩。

プーランクの音楽は、パリに響き渡る鐘の音の描写をはじめ、恋人との思い出を綴る

背後を様々に彩る(オーケストラのように、と例える評もある)。あちこちに飛んだ

思いが自分に帰ってきたとき、青春の苦い切ない感情も見事に音楽で表現されている。

両曲とも、若者の内面から溢れる思い、という点で高嶋みどりのアカペラ

(=組曲「白鳥」。同じくアポリネールの詩/訳・堀口大学、による)とも共通するものを感じた。

詩人にとって、自分の詩の本質を理解する作曲家。それに対して

音楽家にとって、自分の歌曲の才能を理解しうる詩人。

詩人の元恋人マリー・ローランサンプーランクに宛ててこう書いている。

プーランクが作曲した歌曲について、自分が宛てた手紙を指して)

 「・・・・。 

 あなたには、最初のこの・・(=空白)が何を意味しているのか、わから

ないでしょうね。あなたが、この素敵な四行詩の哀愁と朗誦を見事に表現してく

れたからなの。ギヨーム・アポリネールがこの詩を朗誦した時の抑揚にそっくり

なので、感動で胸が一杯になってしまって」

<【アンリ・エル著(訳:村田健司) 『フランシス・プーランク』(春秋社、刊)より】>

<第8章 エリュアールとアポリネール

(1946年に、エリュアールがプーランクを賞賛して書いた詩)(冒頭)

 フランシス 私は自分の心の声が聞こえなかった

 フランシス 私は君に私の声を聞かせねばならない

第18章 プーランクの書法

何よりもまず、言葉に対する最新の配慮と、決してフランス語の韻律法において

あやまちをおかさない感性が挙げられる。 (略)その感性の特質は言葉のニュアンスに

最も的確に最も緻密に従う厳格さにある。

(中略)/ここに言葉をそのまま語ってしまう「語り(パルランド)」はない。

最も自由なはばたきが、つねに歌にまかされている。

プーランクの歌曲は、モルトカンタービレでなければならない。すべての声楽作

品に(合唱にもオペラにも)これがあてはまる。

<ティレジアスの乳房>(注.)をヴェルディのように立派に歌う必要があるのだ。

///注.について(福本)///

(注. プーランクの代表的なコメディ・オペラ。脚本はアポリネール

===

<「雪の夜」>

Un Soir De Neige の楽譜を見ると、4曲目・最終小節の下には『24-26 December 1944』

と書かれている。それはすなわち、1944年12月のクリスマスの3日間で、この小カンタータ

書かれたことを示している。

私たちが歴史の知識として知る出来事>1944年は第二次世界大戦の末期、ヨーロッパではドイツの

ベルリン陥落をもって戦争(ヨーロッパ戦線)の終結とする=1945年5月8日が終戦(戦勝)記念日。

すなわち終戦5ヶ月前のフランスで

プーランクは何を思ってこの曲を書いたのか。

結論から言って、それを明快に示す文献や資料はないようだ。

しかし、前後に書いた曲や当時のフランスの状況から推し量ることはできる。

そうした文章をいくつか。(福本)

==

<以下、抜粋で>

【エリュアール年表】<エリュアール選集(嶋岡晨訳)巻末より>

注.関係すると思われる部分のみ抜粋(福本)。詩作も抜粋したもののみ。

1933年(38歳)

ドイツでヒトラーが政権を握る(ナチスドイツの出現)。

エリュアールは、彼と思想を同じくするシュールレアリストたちとアムステルダムの戦争反対国際会議に参加。

1934年(39歳)

8月、2人目の恋人ニューシュと正式に結婚。

1936年(41歳)

この年のはじめ、10年来親交を結んでいたピカソの展覧会での講演のためスペインへ旅行。

詩人ガルシア・ロルカを知る。(注.この頃スペインでは人民戦線による共和制がひかれようとしていた)

6月から7月にかけてシュールレアリスム展のため、ロンドンに滞在。

いっぽうスペインでは内乱が起こり、フランコ派が進撃。

9月、ロルカはファシストフランコ側)に銃殺された。

/翌37年4月、ゲルニカが空襲で破壊される(エリュアールは詩「ゲルニカの勝利」を

書く。スペイン人民との連帯感の強化)

1939年(44歳)

この年エリュアールとニューシュはル・ペック街に居をかまえる。

6月『見えるものにする』刊行。ブラック、キリコ、ダリ、その他十数名の画家への敬意。

第二次世界大戦勃発。9月、エリュアールは(第一次世界大戦以来)再び動員され、ロワレの

軍経理部に主計中尉として所属。勤務の間にロルカの詩を翻訳。ルネサンス期の詩人たちを読む。

10月、ナチのパリ侵入に先立って書かれた詩集「開かれた本、1」の草稿、カイエ・ダール社に渡す。

翌40年6月、パリ陥落、ドイツ軍の占領時代となる。『開かれた本、1(1938-1940)』刊行。

1941年(46歳)

エリュアール、抵抗運動(レジスタンス)に参加。

1942年(47歳)

1月、『開かれた本、2(1939-1941)』刊行。

また、さまざまの秘密出版物刊行に協力するようになる。「最後の夜」において、エリュアールは

はっきりと圧政の恐怖を表現。詩を<武器>とする方向にむかう。

4月、アルジェリアのアルジェの出版社から詩集『詩と真実、1942』を刊行。

落下傘によって抗独派(マキ)の人々に投下配布。

<深夜草書>をヴェルコールと始めたエディト・トマスと出会い、彼らに加勢。

『詩と真実、1942』は、ロンドンの親友ローランド・ペンローズの手に渡り、英訳され

自由陣営においてひろく読まれるようになる。

1943年(48歳)

前年末から44年にかけて、ドイツ軍政府に追いまわされ(『詩と真実』その他が危険文書として告発されたため)

危険がせまり、住居を転々とする。7月14日(パリ祭)、レジスタンス詩集「詩人たちの名誉」を<深夜草書>で刊行。

11月、ロゼール山中のサン・タルバン精神病院に逃げ込み、ボナフェ博士にかくまわれながら抵抗詩を執筆。

12月、ジャン・デュ・オーの匿名で『戦いのなかでの愛の7つの詩』刊行。

1944年(49歳)

2月、ひそかにパリにまいもどり、シャペル通りのアパートに身をひそめ、「フランス文芸」紙の編集を助ける。

『ここに生きるために』刊行。

5月、「ヨーロッパ」誌で、レジスタンス詩集の続編を編む(エリュアールはモーリス・エルヴァンの筆名で参加)

この頃、ナチの虐殺つづく。

占領されたトゥールーズの町の解放のため『苦悩の武器』を執筆。詩編『自由』を印刷、各地の抵抗運動の同志に配布/

8月25日、パリの解放。

12月、深夜草書版で『ドイツ人の逢引きの地で』を刊行。

1945年(50歳)

ベルリン陥落。終戦。4月、『1944年4月、パリはよみがえった』刊行。

=====

小室内カンタータ『Un Soir De Neige(ある雪の夜)』の4曲のうち

「Un loup」「Derniers Instants」「Du dehors」の3曲(2、3、4曲目)は、

上記年表にある『詩と真実、1942』の中から。

「Le feu」(1曲目)のみ、『ここに生きるために』(1944)から採られている。

(注.いずれも原詩タイトルの通り。)

エリュアールの一方で、プーランクはこの頃どうしていたか。

プーランクのこの頃までの作曲活動を追うと、1936年にアポリネールとエリュアールの詩による

「7つの歌」、1937年に「ミサ ト長調」、1938年から39年にかけて「悔悟節のための4つのモテット」

と、混声合唱のための名曲を次々と生み出している。しかし、1941年は

「Exultate Deo」「Salve Regina」という独立したモテット2曲を作っただけであった。

そして1943年から、国外で出版し作者名も伏せられて国内の抵抗運動(レジスタンス)の人々に配られた

詩集『詩と真実、1942』を軸にして、プーランクは合唱曲を2つ作曲する。

「人間の顔」(1943年)と「ある雪の夜」(1944年)である。この2つの曲、前者は混声6部の二重合唱、

後者は6重唱または混声6部という大小の規模の違いがある。

さらに前者は占領中に作曲され、ベルギーで密かに歌われるため送られた楽譜は

作詩・作曲者とも記名がなかったという(初演は終戦前の1945年、イギリスのBBC合唱団において)。

対して後者は、8月のパリ解放を経て、戦局が終盤へ向かっている1944年の暮れの作曲である。

エリュアールはかつて、シュールレアリスムの詩人であり、「愛」を詠う詩人であった。

しかしドイツ軍の占領を境に、言葉を<武器>としたレジスタンスの詩人として、危険な状況下でも詩を書き続けた。

プーランクはその詩集に触発され、

[占領者に屈しない人々を讃え、また圧政者の抑圧と暴虐を鋭く突き、自由を高らかに歌う]「人間の顔」を作曲した。

いわば力を振り絞った大作、人間の顔を作った後、パリは解放された。

が、戦争は続き、忌まわしい思い出も貧しさも苦しさも未だ去っていない。

この戦争末期、そうした『戦争のこだま』のようなものが、プーランクに「ある雪の夜」を書かせたのではないか。

だからといってその言葉は、

決して追憶の中の超現実な突飛な言葉などでなく、詩人の「戦うため」の言葉だったことも、忘れられない事実。

ボクは勝手にそう考えています。

【詩編(抄)】

もうすぐ

この世のすべての春のうちで

この春は いちばん醜い

ぼくのすべての生き方の中で

信頼することが いちばんいい

(中略)

ぼくには怪物(ばけもの)のことばはわからない

ぼくはやつらを識っていて やつらはすっかり喋ったが

ぼくに見えるのは 美しい顔

自分を信じている善良な顔

もうすぐ 支配者たちを亡ぼすことを信じている その顔だけだ。

                         1942年『詩と真実、1942』

                        (訳:安東次男)

8月盛夏

(略)

光を理解した人間が

このゆうぐれを 夜にすることができるか?

舗道から 額から 挙げたこぶしから

生れる希望 それがあるからには

ぼくらは 希望を強いよう

ぼくらは 人生を強いよう

絶望の 奴隷たちに

(略)

人生に在る ことの優しさ

ぼくらの兄弟は死んで おかげでぼくらは自由に生きて と知ることの苦しさ

生きること 生きさせること それはぼくらすべての心の底に・・・

夜が来る ここはぼくらの夢の鏡

真夜中 夜の光栄をもたぬ真夜中

今宵ぼくらは皆して 夜を犯罪にまきこんだ!

と知ることの 優しさと悲しさ。

                        1944年『ドイツ人の逢引きの地で』

                        (訳:安東次男)

スウェーデン放送合唱団1999年来日公演 パンフより(解説:松原千振)】

プーランク: 小室内カンタータ「雪の夕暮れ」

 今年生誕100年を迎えるプーランクは、フランスの合唱音楽に消えることのない足跡を残した。(略)

 そのプーランクが詩人ポール・エリュアールと運命的な出会いをしたのが、1916年、16歳のときだった。

前衛詩人だったエリュアールの詩に共感したプーランクは、カンタータ、歌曲、合唱曲を創作し、

あの「人間の顔」に至ってゆく。

 カンタータ「雪の夕暮れ」は1944年のクリスマスに作曲された。全4曲からなるこの曲は、

夜の記憶、即ち、寒さ、孤独、何年もの貧困、火の欠乏、そして失望、・・・人々は精神の高潔さを失い、

真夜中の叫びとなってゆく。(略)

 「人間の顔」に続く作品として知られるこの曲は規模こそ、それ程大きくないが、その主張は、

夜の静けさと暗闇に沈んでゆく程深い。

 1945年、平和が戻り、プーランクは自らをなぐさめるがごとく、フランスの民謡の編曲を8曲書いている。

【『プーランクは語る』フランシス・プーランク /編:ステファヌ・オーデル 筑摩書房 より】

===(以下抜粋)

(6.宗教曲ー好みの傾向   より)

オーデル:合唱曲と宗教曲によってプーランク独自の素養が花開いたといっても、

 それに反論はされないと思いますが。

プーランク:たしかにそうですね。わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものを

 そこに注ぎ込んだつもりです。 (中略)

(略)自分の内面に深く沈潜しようと試みていたころ、エリュアールの詩をもとにした最初の歌曲集と並行して、

 最初の宗教曲<ロカマドゥールの黒衣の聖母への連祷>を書き上げたのです。

オーデル:すると最初の合唱曲が<黒衣の聖母への連祷>だったわけですね。

プーランク:その通りです。

オーデルボルドー行きの列車の中で楽譜を見せてくれた作品でしょうか。偶然同じ汽車に乗り合わせた

 あのときのことですけれども。とても美しくまた清らかなものだと思われるとあなたに言ったら、

 満足げな様子だったのを憶えています。

===

プーランク:あのときのことは、わたしもよく憶えていますがね、あれはもっとあとのことですよ。

 あのとき見せたのは<連祷>ではなくて<人間の顔>でした。無伴奏の二重合唱のための大曲カンタータ

 宗教曲にたとえ、ポール・エリュアールの詩にふさわしい「清らかな」という言い方をされたので、

 わたしとしても悪い気はしませんでした。

===

 この作品の最後をしめくくる「自由」は連祷といってもよいのではないでしょうか。わたしとしても、

 ほとんど宗教的な感情をもって作曲にあたったのです。1943年当時、多くの人々が逮捕され、

 強制収容所送りになり、ひどい場合は銃殺されました。わたしもまた愛するパリにいて、緑青色の軍服を着た

 ドイツ兵が市街を行進するのを目の当たりにしなければならなかったのです。

 自分の感情とぴったり一致するものがこのエリュアールの詩にありました。それで作曲にとりかかり、

 強固な信念はもちろんあったのですが、ロカマドゥールの聖母にこの仕事の加護を求めることも忘れずにいました。

 この曲はピカソに献呈されています。難曲なので、残念ながら、めったに演奏されません。

 しかし自分の知っている範囲でも、2年ほど前にニューヨークで演奏され、時代状況はまったく変わってしまってはいても、

 「占領」とは何かをまったく知らないーー幸いなことですよーー聴衆全体に感動を与えることができたのです。

(略)

===

自由

ぼくの生徒の日のノートの上に

ぼくの学校机と樹々の上に

砂の上に 雪の上に

ぼくは書く おまえの名を

読まれた 全ての頁の上に

書かれない 全ての頁の上に

石 血 紙あるいは灰に

ぼくは書く おまえの名を

金色に塗られた絵本の上に

騎士たちの甲冑の上に

王たちの冠の上に

ぼくは書く おまえの名を

密林の 砂漠の 上に

巣の上に えにしだの上に

ぼくの幼年の日のこだまの上に

ぼくは書く おまえの名を

夜々の奇蹟の上に

日々の白いパンの上に

婚約の季節の上に

ぼくは書く おまえの名を

(中略)

そしてただ一つの語の力をかりて

ぼくはもう一度人生を始める

ぼくは生れた おまえを知るために

おまえに名づけるために

自由 と。

                         1942年『詩と真実、1942』

                         (訳:安東次男)

===

この「自由」はエリュアールの詩集『詩と真実、1942』の冒頭に置かれており、

また、プーランクの混声二重合唱のためのカンタータ『人間の顔』の終曲となっています。

つまり「Un Soir De Neige ある雪の夜」とは、同じ詩集から採られた兄弟といえる

曲で、兄貴分といえるでしょう。

(ですから「人間の顔」に言えることは、ある程度「ある雪の夜」にも言えることなのです)

曲のできた経緯をおいても、この曲「自由」は20世紀、いや

混声合唱の歴史のうえでも輝かしい名曲となりました。エリュアールは当初、詩のラストの『名前』

には愛する人(妻のニーシュ)の名前を持ってくるつもりでこの詩を書いたようです。ですが

このような形で詩が生まれたおかげでプーランクの偉大な曲も生まれることになりました。

(なお前述の「この世のすべての春のうちで~」という詩が、プーランク

「人間の顔」の1曲目にきています)

<個人的に私の、「死ぬまでに1回歌いたい」という曲があるとすれば、これだったなぁ・・と思います。

・・この曲を1度だけ、歌ったことがあります(人間の顔全曲、はありません)。

もう1度、この曲を歌うことができたら、死んでもよい(<それは嘘ですが)。

でもそれ位の、全身が震えるくらいの感動に包まれるというのは、合唱をしていて

そうそうあることではなかった、と思います。(ちなみにワタシはその時23歳でした)

練習はそれはそれは、とっても大変でした。6声の混声が2個ですから、単純に言って

「ある雪の夜」を歌う札混が2つ=最低でも60人以上は必要です。(自分が歌った時は約100人でした)>

前回メールに書きましたが、作曲当時はこの曲は難しすぎて、作曲者のプーランクもぼやいていた通り

あまり演奏されなかったようです。現在では、演奏会(ライブ)ではともかくも、沢山の素晴らしいCDが

リリースされています。私の手元だけでも、合唱王国であり初演国のプライドも感じさせる

英国の「The Sixteen」、12声を各パート1人で歌う!驚異の「Groupe Vocal de France」、

カリスマ指揮者Eric Ericsonに率いられた「Netherlands chamber choir」、etc..

さらにごく最近でも続々と素晴らしい録音が出ているようです。

余談>この詩「自由」の5連目は、幼年から青年へと移り変わって、たぶん『新婚さん』のことですね。

ここだけフランス語を表記すると

Sur les merveilles des nuits

Sur le pain blanc des journees

Sur les saisons fiancees

J'ecris ton nom

となります。「日々の白いパン」って美味しそうだな・・・などと当時

学生だったフクモトは思ってましたが。

札混で、Notre Pere(デュルフレ作曲)に取り組んでいたら、

この節全体と、「pain」が少し敬虔な、神聖なものに感じられ思い出しました。

「fiancees」も同様にそうですね~。(それは、Hymn a la Vierge ヴィレット作曲)。

==

【アンリ・エル著[訳:村田健司] 『フランシス・プーランク』(春秋社、刊)より】

第10章 <人間の顔>

(中略)

 無伴奏の2群の混声6部合唱に提供されたポール・エリュアールの詩は、特に有名なものである。

戦争による暗黒の数年間に書かれたこの詩は、沈黙を余儀なくされていたフランス国民の心の痛みと

苦悩に薄くヴェールをかぶせながらも、それらを適切に表現している。

(略)

豊かで、緻密で、よく響く構造を持つ、素晴らしい多声音楽であるこのカンタータは、

多様なニュアンスに輝いているが、自己顕示の影はない。作品のしなやかさと清らかさは、明快で

流れるようなゆるぎなさと、慎み深い力強さと、抑制された感動を生む。

(略)

感情は輪郭を描く線を決して乱さない。だが、無味乾燥というわけではなく、後悔、苦悩、

暴力がこのカンタータに生気を与え、そして悲しみを帯びた優しさ、あざけりのうなり声、慎み深さ

と品格にあふれた人間の愛情・・・。

(略)

==========

王国、とも称される福島の生徒たち、指導者、その周囲を取り巻く環境などの

充実ぶりは色々な方が述べられているので、あえてここでは触れない。

だが彼らの中に「人間の顔」に挑戦するという、心情がどのようにして

生まれ出たのかは、とても気になる。

録音でも何でも良いから、ぜひ演奏を耳にしてみたい。と思う。