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雪の降る前

そしてまたいつのまにか —

トラピスト修道院に入ってみた

復活祭も過ぎしばらく経った4月30日(月・祝)、前から望んでいた渡島当別の「灯台の聖母 トラピスト修道院」の内部見学に行ってきた。

通常、駐車場から短い坂を上った所の「正門」までは、誰でも行くことができる。

正門は飾りの付いた格子扉で閉ざされているが、中庭や本館を見渡せる。内部に入ることは、できない。

今回は内部見学者として、この扉を反対に本館側から見させてもらうことができた。

希望者は毎週月曜の午後のみ、事前にハガキで申し込めば可能。

ただし男性のみ。往復はがきをポストに入れて数日後、復信に修道院への行き方が丁寧に記された物が届いた。

函館からJRで渡島当別に行くには、江差線津軽海峡線)で向かうのだが、指定された午後2時に合わせて

うまく着ける列車がない。そこで午前中は江差線で鉄道の旅を楽しむことにし、木古内駅12:34発、

渡島当別駅13:03着の普通列車当別へ向かった。

修道院へ車で向かうときは、海側から見晴らしの良い牧草地を一直線に抜ける、写真で有名な並木道を行く。

が、渡島当別駅からの今回は案内板に従い徒歩専用の、駅裏手の小さな山道を行ってみた。谷を見下ろしながら

(嘆きの谷?などと名前は特にない)進むかなり急な道である。

だがここを通ると当別教会とトラピスト売店の真横に出ることができた(以前から気になっていた道であった)。

時間に余裕ができたので、これも以前から行ってみたかった裏手の山にある「ルルド」まで登ってみる。

途中、ここで亡くなった修道士と、周辺の信徒のための墓地がある。墓石には当然ながら、十字架が並んで

いる。この墓地の山側に、見晴らしよく開けた中くらいの牧草地があり、周囲を山麓の森が取り囲んでいる。

その樹間のひとつへと道は続いており、裏山のルルドへとつながっている。

深い森をしばらくすすみ、最後に急な山道を登りきって抜けると、そこがルルドだった。

修道院の帰りに頂いた「百周年記念」冊子によれば1911年に開かれた当初のルルドはさらに200m先であった。

風化のため危険となり、89年に開かれたのが現在のルルドである、ということだった。

大きい岩の、右上部に穿たれた穴に、聖母像。中央は大きく奥へと岩穴が開き、儀式等で使うと思われる台が

置いてある。岩の全体には蔦が這っており、秋には紅葉が見事だという。

この場所から見下ろした景色もすばらしい。先ほど通ってきた道が見えておりその先に、修道院の偉容と津軽海峡函館山が一望に見渡せる。絶景。

約束の時間になり、受付の西門へ。老修道士さんが、見学者入り口である聖堂へと案内して下さる。

院内のアスファルト道路には、至る所全幅の3分の1くらいの幅で黄色いラインが引かれている。尋ねると

ロードヒーティング」が入っていて冬はそちらを歩くのだそうだ。

“全てが(中世のような)不自由な生活”という偏見があったとは言わないが、さっそく軽いカルチャーショック。

聖堂入り口は待ち合いスペースのようになっていて、キリスト教関連の本や解説ボード、おみやげのパンフや

ハガキまである。帰りに教えてもらったが、このスペースと隣の展示室は最近になって作られたそうで、

展示室は小さいのだが聖務に使われてきたラテン語の大きな祈禱書など貴重な品が置いてあった。

これらが誰のためのものかというと。

ミッション系の学校では修学旅行の見学先にトラピストを選ぶことがある。共学の学校の場合

女子生徒は、本館の大展示室や修道士の居住スペースに立ち入ることが出来ないため、ここで待ってもらうのだ

そうだ。そして小展示室からこちらに品物を持ってきて説明することもあるという。

また、シスター(修道女)が来客としてこの修道院に招かれた際は食堂でもてなしを受けているし

(写真があった)、クリスマスや復活祭には聖堂に、地域の男女の信者を招き入れてミサを行っている。

つまり「敷地内すべてにわたり女性が一歩も足を踏み入れられない」ということではないようだ。

今日、修道院内をご案内いただいた案内係の方は、30代後半?で自分よりは若いとおぼしき修道士さん。

待ち合いスペースの扉を開けられ、はじめに聖堂へと通される。

この日の外は晴天。ステンドグラスはない。が、陽がよく差し込むように造られている、白を基調とした、

清冽な空間。そして

その陽が差す方向にたたずむ・・正確にいうと、その方角の天空に浮かばれている聖母子。

こちらを見下ろしているその表情は、木目を生かしたスリムなラインと、凛とした表情が印象的。柔和、ではある。が生身の人間によく似ている、

というその母子の姿がかえってこちらに厳然さを思い起こさせるような。

国内でたくさん、また国外でも少し(イタリア)、聖堂を見てきたつもりだったが、ここに似た空間を見たことはなかった気がする。

☆前述の百周年冊子を再び見る。フランス国内の関連する3つの修道院、シトー修道院(No.1 創設1098年・

シトー会の創始)、

トラップ修道院(No.2 創設1147年・改革運動の始まり>トラップの改革を受け入れた修道院を以後「厳律シトー会トラピスト修道院」と呼ぶ)、

ブリックベック修道院(No.10 創設1824年・当別トラピストの母院)これらいずれの写真も、

聖堂は簡素にして質素。修道院はひたすら祈りを求める場所、と考えれば、余計な舞台装置は不要なのかも。

ひたすら自己と神との関係を追求する、祈りを最も大切にする、という点での神聖さが伝わってくる。

なお、シトー会の精神は聖ベネディクトが与えた教え「祈り、働け」に象徴される。現実と理想のバランスが取れている、という説明文は興味深いものだった。

最も重要なのは何をおいても祈り、そして自分たちの働きで生計をたてる労働(酪農・菜園・果樹園・庭園と多岐にわたる)、そして

人間性を高め霊性を深めるための「聖なる」読書・・これらをみてただ「簡素」だとはとてもいえない。

働くことで、神の働きと、みずからの労働の価値を実感し自分にむかう。豊か、と言ってもいいのではないか。

そして、1度見たら忘れられないフォルムの聖母子像の作者は、舟越桂氏であった。1977年に聖堂に安置、

祝別されたこの聖母子像は、氏がまだ20代の頃、外部依頼を受けて制作した氏の初めての作品でもある

ということだ。

なおこの聖堂は創立以来の旧聖堂から移った意で「新聖堂」としているが、落成したのは1974年であり、

すでに40年!近くを経ようしているのに、少しも古さは感じない。

さらに驚いたのはこのあと見ていった、聖廊下をはじめとした昭和初期、明治の創始期の建物が手入れが行き届いていて、古さを感じなかったことだった。

聖堂の印象に戻る。祭壇と参列者席、という一般的な教会の形とは異なり、祭壇が非常に広く取ってあり

その周りを、修道士のための祈りの席が取り囲んでいる。

例えは妙だが、サントリーホールベルリンフィルハーモニーのようなワインヤード型の舞台を、同じ高さで客席(ここでは「修道士席」)が囲んでいる風である。

(なお外部の人のための「客席」はわずかだが後方に設けられていて、その部分は一般の教会に近かった。地元の信者の方々のために設けたそう)

その広い祭壇の中央に。4月末ではあるが「復活祭の大ろうそく」がかかげられていた。

聖堂の空気感、雰囲気をうまく言葉にしようと、感覚を澄まそうと試みる。

が、気になってどうしても目が行ってしまった・・のがパイプオルガン。

ルクセンブルグ製である、ということを聞き、そこに置かれていた楽譜などについて2、3尋ねて説明してくれたと思う。

試しに軽く1音、弾いていただいた音が、聖堂内で心地よく跳ねかえって残響を残し。逆に自分のみぞおち辺り、深く穿たれるような感覚。

この聖堂内に入ってきた時から、空気に包みこまれる感じはあった。

そしてバッハの「小プレリュードとフーガ」を弾いてくださった。

自分はあやうくその場に跪きそうになり・・思いとどまり。

何とか体の前で両手を合わせることで自分を支えていた、と思う。

(あのとき跪いて、祈りの世界に入っていたら。

 洗礼を受けるにとどまらずそのまま修道院に居てしまい、妻子にサヨナラし残りの人生を神とともに・・。

 と想像はめぐるけれど、現に俗世に帰還してこうしてブログを書いているのだから、自分にはその準備が

 なかった、ということだ)

(☆実際、修道士として正式に修道院に入るためには何年もを要する)

(しかし、質素であるということも、また舞台なのだ。宗教の原始において、教会=聖堂が信仰の拡大に

 いかに重要だったか。

 また、音楽がキリスト教にとってどれだけ重要な役割を果たしたか。

 自分が中世の人間なら今日のような経験をすればそれだけで、信仰を誓ったのではないか・・

 と想像してみる)

その曲が、バッハだった、ということも重要だったのだろう。

あまりの美しさと荘厳さに、最後の一音の余韻が止んだ後もしばし言葉を忘れる。

ふと我に返り、質問する。

あまりに上手なんですが、まさかこちら(修道院)に入られてから上達されたということは・・?

修道士さんは笑って否定される。

いえ、以前これ(鍵盤)に関係した仕事をしていたので・・・。オルガンでなくピアノですが。

ピアニスト?プロの・・または学校の先生?ということかな。

しかし案内係氏は今は神に仕える身、(記者でもない)自分にあれこれ詮索する権利はないし立場でもない。

だが、様々なお仕事を経験された方が集まっているので(例えば食品製造業とか)、

それらの「知識を最大限生かして、少人数のこの修道院は運営されている」と説明をしてくださった。

さて予期せず驚いた話。

自分(筆者)の仕事についてとか現在の世相を話している時、修道士さんからの

「あぁ、今はネット社会ですしね・・・」という言葉に続き、

自分が手にしている冊子もこの分野に長けた修道士がパソコンで編集されたこと。

どうやら海外の修道院とはメールでやり取りをしているらしい?こと等・・。

(そういえば、現代のバチカンはITの最先端を行く、という話もどこかで耳にしたことあるな)

(えっ!ネット社会とはつまり俗世の最たるものであってそれはYoutubeでありそれは2ちゃんであり萌えでヲタで・・・えーっ!?)

つまり自分が聞きたかったのはこの1点。『修道院でネット見れるんですか???』ということだ。

残念ながら聞けなかったが。(再訪することがもしあらばぜひ聞いてみたい)

しかし前述の「現実と理想のバランス」、

一点の曇りなき祈りの空間と、自然界を相手にしつつ自前の工場まで駆使しておこなう労働・生産という

見事な対比を考えると、意外にルールを設けたうえでネットも活用していたりして(・・・妄想はふくらむ)。

このブログを読まれる方に、伝えたい嬉しい発見もあった。

かつてはラテン語で祈祷を行っていたんですよね?(*1964年頃まで)というこちらの問いに対して、

現在ではすべての祈祷が日本語で行われている

(*注.63年公会議での〈典礼憲章〉、翌年の〈全教会のための一般指針〉を経て)とのこと。

そして先ほどのオルガンを使って1日7回行われる祈祷で使われる歌の、かなりの割合が高田三郎氏の手による

典礼聖歌」だということだった。

『高田先生の聖歌なしでは、今の私たちの祈りは成り立ちません』とまでおっしゃった。

これは新鮮な驚きだった。

と同時にまたも誤解していた・・・高田三郎典礼聖歌」というのは、我々が普段目にしている出版された

合唱団むけの作品、

いわば「イザヤの預言」「争いと平和」等と同じ、キリスト教のシリーズものか何かと思い違いをしていた。

(以前も高田作品の理解についてレッスンで一喝されたことがあったのに。まだまだ勉強不足)

反省する一方で嬉しかった。

こちら(修道院)の純然たる「祈り」の側からすれば当然、と認識されている高田作品の宗教性。

それが、私たち、いわゆる合唱人の側を見たとき、「すべての作品のその根底を流れるもの」に理解が

及んでいるのかどうか(先のレッスンはまさにそこを指摘されたのだった)。

つまり本物であるということ。

本物の宗教作品を前にしたとき、歌う我々が信仰を持っているかどうかさえ、極論すれば関係ないであろう。

本物として書かれているのだから、歌い手として本物を追求して歌うしかないのだと思う。

巷に伝えられている高田先生の、作品に妥協されないお人柄を考えても分かることだ。

絵画や歴史上貴重な物、また豊富な図書室や清潔な食堂など院内ほとんどをといって良いほど見せて頂いた。

音楽の話でも盛り上がり、仲良くなった(?俗世でいうと)と言っていいほどリラックスした雰囲気で

見学をさせて頂き、見送られて玄関を出る瞬間まで本当に心を尽くして、歓待していただき感激した。

彼が修道士でなければ、メールアドレスの交換くらいしただろう。

(現に、修道院にあてて礼状を出す気でいたのだ、が・・・)

「来客を心をこめてもてなす」というのはトラピスト修道院の伝統でもあるそうだ。どこかで読んだ、

礼状は修道院に届くが、決してそれに返事が帰ってくることは、ないということ。あくまで客人は客人で、

彼らは神に仕える人。親しくなる、ということは恐らく、ないのだ。

(でも、もっと勉強したうえで、いつか再訪してみたい気もする。)

(そのときこそ聖堂で思わず跪き彼らの仲間に留まることを選んだならばその時は妻子に別れを告げ・・。ってもうええっちゅうの)

建物や記念物のほかに、印象的な写真の数々が展示室に飾られていたのだが、百周年のとき1年間にわたって

新聞に連載されたときの記事だった。

その中には私の知り合いが撮影したものもある。この出版された写真集は(私自身は1冊所持しているが)

現在は絶版である。修道士さんが

「我々が撮られたのに、撮られた自分たち自身が普段見たこともないような視点から撮影されていて驚いた」

と言われる美しい写真が多く含まれており、

絶版をお互いに残念がった。図書館などにはあると思うので、機会があればぜひ見て頂きたい。人を引き付ける魅力にあふれる場所であると実感できると思う。

おしまいに、修道院内に数ある海外からの品々のひとつについて。

冒頭の、観光客として見上げたときの、正門の柵に正対して見えるのが正面玄関。

内部の2階大展示室から降りて行くと、玄関は中くらいの吹き抜けになっており、そこにもマリア様がいらした。

ルルドとも聖堂のお方とも違うのだが、それはどこが違うのか? といえば・・・。気がついた、

靴が違う!裸足でなく木靴でもなく、履物?をはかれていてそれには東洋風の花柄が・・。

これは、かつて中国「慰めの聖母修道院」からいただいた贈り物のマリア像であった。この修道院は1883年創立

で北京にあり、アジアでは第1号となる当時の拠点であった。当別トラピストの創立時も何かと、

準備から世話まで受けた縁の深い修道院だったが、1947年に共産党政権により破壊され閉鎖となった・・。

だが話は昔話で終わらない。

最近の新聞で何度か、中国特派員の記者が現代中国の「キリスト教事情」を書いているのを読んだ。

そこには、政府共産党の「公認教会」に対して、政府が認めないいわゆる「地下教会」があるとしていた。

中国政府の「公認教会」は、肝心のキリスト教の教義の核心を認めていないため、

逆にローマ・バチカンはこれを正式な教会とはしていない。信者の数も、「非公認=地下」のほうが数を増やし続けている、という内容であった。

(ここから、話はまるで小説を地でいく。)

前述の北京「慰めの聖母修道院」が破棄されたあと、アジアでのシトー会修道院の拠点は、ここ当別トラピスト修道院になった。今に至ってもそれは変わらない。

広くアジアでのキリスト教の立場を守る立場でいうと、

・・・ここ当別トラピスト修道院は、現代中国の地下教会信者たちを支援し守る立場にある!・・・

ということ。前述の修道士さんいわく、

「彼らは連絡のためこちらに通信をよこす時も、危険が及ぶのを恐れて差出人の住所や氏名は一切書きません。

 一説によれば、常に拠点(アジト)を変え続けていて●●(>とある公的な施設の種類。念のため伏せ字!)を

 今は拠点にしているという噂も・・・」

!・・またも衝撃。

4月も終わるこの日、自分は、「歴史」を学んだり、ある種隔離された「別世界」を見るつもりで来ていた

(今思うと)。

だが、信仰、や自由ということに関して今この瞬間も命を張っている人たちがいるということを、この修道院

という(閉ざされた)場で知ることになるとは、思いもよらなかった。

人が何かを「信じる」ことについて。

信じること、やこれまで信じてきたこと、が脆くも崩れやすくなろうとしている昨今の世界で。

少なくともこれだけは言える。自分も

「宗教曲」という種類の表現をこれまで、数えきれないほどおこなってきた。たぶんこれからも。

高田三郎作品だけでなく、例えばパレストリーナや近現代ヨーロッパの曲やそれらをまとめて

宗教曲はこう歌うべき、などという答えは見つけていない。

修道院の中で祈られるように、歌うことはもちろんできないだろう。

だからなおさら、信仰を音楽で表現するとき、真摯さ、誠実さが求められるべきだと思う。

それが、宗教者ではない、表現者としての矜持だと思うから。