雪の降る前

そしてまたいつのまにか —

シューマンのこと – 東北福祉大学混声合唱団その2

前項につづき、今度は東北福祉大学の自由曲について。

シューマンは、2年前の全国大会でも自由曲として彼らは演奏しており。

その時の会場で記した感想メモを見返すと、

「自分の現役時代以来、久しぶりに聞いたが洗練されて上手になっている」

シューマンのミサは、素直なだけでは、一筋縄でいかない曲。その音楽をうまく自分たちのものにしている」

「可能性を感じさせる50人」

などと書いている。

今回の「Requiem」に関して、“鎮魂歌”として、今の東北のシチュエーションから震災と結びつけていわゆる

「悲劇的な」またはカタストロフィー的なものを連想していたとしたら、客席は『あれ?』と拍子抜けのような

感覚を持ったのではないか。

決して演奏した彼らのせいでなく、作曲したシューマンの音楽がそうだったから、としか言いようがない。

ではシューマンのRequiemってどんな曲なのか。考えてみる。

この曲を作った1852年(初演・出版は1864年と遅い)、シューマンは42歳。

意気揚々と「デュッセルドルフ市の音楽監督」に就任したまでは良かったが、2年が経ったこの頃には

「合唱団との関係が悪化、辞任をすすめられる」「リューマチの発作に悩まされ不眠と鬱症状」「神経症のひきつけの発作」「聴覚異常」、しまいには心の拠り所である妻クララの「流産」・・・と。

<・・絶句>

<年代的に自分とかぶることもあり、この時代の彼の身に起きたことを考えると涙なしにはいられない・・・>

しかし、この年は合唱作品の名作も立て続けに生まれている(自身がバッハのロ短調ミサとマタイを指揮した時に、刺激を受けたことがきっかけともいわれる)。2月から3月にかけて「ミサop.147」、4月から5月には「レクイエム」、同時にモテット「悲しみの谷においても絶望するなかれ」などを手がけている。この頃のシューマンは知人への手紙で『教会音楽を書くことは作曲家の最高の仕事』と考えていたことを表明している。

しかし、それだけか。20代でピアノ曲を、30代で歌曲・交響曲室内楽と作品の幅を広げていったシューマンが、40代のはじめで立て続けに宗教音楽を生み出したこととこの頃の彼自身の状況を鑑みるに、他の誰でもない

“彼自身の慰めとして”の意味があったのでないか?という仮説が立つように思う。

評論家の吉田秀和は著作の中で、シューマンについてこう述べている。

それまでの職人的な音楽家(特に作曲家)により提供されるべきものだったのが、彼の存在により、

技術とは別な次元に根ざした精神の働きであるという考え方・・・(中略)、

音楽は 高度に知的で、しかも洗練された感性と人格の裏付けを要求する表現活動であるという考え方が、

ここから生まれてくる。

また別な項で、

シューマン以来、音楽は魂を得る。

とも言っている。これは、ベートーヴェンが音楽のロマン化への水門を切り落としたが、越すに越されぬ一線があり、古典主義の岸のとどまったことを指し。「この一線を最も明確に越えた人、それがロベルト・シューマンである」と。

ひとつの主題を一貫する技術の裏付けを持ちながらも(だが彼は職業的音楽家としてはスタートしていない)、しかしハーモニーのひとつひとつの移り変わりが、エスプレッシーヴォな旋律が、それぞれに彼の魂がうたっているということを示す。それはすなわち彼がロマン主義、ロマンティックな音楽の精髄にいたったことを示すものだ、と。

2年前のキタラでの全国大会で、シューマンを自由曲にした団体がもうひとつあったのだがそこの演奏を聴いて、自分はこうメモしていた。

・・彼らはR.シューマンをどういう作曲家と見たろう?「のだめカンタービレ」9巻のピアノコンクールで、発熱を押してのだめが弾くシューマンピアノソナタ、執拗に繰り返される連続する下降音、波打つ音型。もしくは、PMF(パシフィックミュージックフェスティバル)第1回、最期の力を振り絞ってバーンスタインが若手音楽家たちに教えた、せき立てられるような弦の下降音の塊。この「執拗」で「せき立てられる」ということがシューマンの、一種、病的にも思える“らしさ”を形づくっている。ピアノであればアルゲリッチの演奏が示している。シューマンは何かに急かされている、恐れている(それがクララや若きブラームスとの因縁によるものなのかは定かではないが)。ともかく、こうした病的な感覚は裏返すと(躁鬱の、躁)「Gloria」で繰り返される、付点を含んだ弾む様な連呼になり、それはただ爽やかであればよいというものではないだろう。・・

クララとブラームス云々、というのはこの時の自分の短絡的な想像、でしかなく浅い。のだが、

それ以外の部分について思考はこの時とあまり変わっていない。

さて東北福祉大の自由曲に戻る。

当日、青森市文化会館ホールで感じたこと。まず、冒頭に書いた(2年前に感じた)彼らの

○「可能性」が同じ作曲家の曲で花開いている

ということ。それから

○深みのあるハーモニーなどの、いわゆるロマンティックな演奏を自然と身につけて、表現できている

と感じたこと。これがなぜ、彼らが可能だったか、と考えると

(ここから想像が入ります→)

とてつもない悲劇(現代の我が国で稀に見る)を体験した宮城・東北福祉大の彼らが、

「歌えること」「仲間がいること」そして根本の所の「音楽のよろこび」とそこから得られる慰めを、

(望んではいなかったにせよ)身をもって知ったこと。

そのことが、前述したこの曲を作ったシューマンの「魂」とリンクした。

としか言いようがないのではないか。

形(発声など)や、風格(アゴーギグ等音の流れなど)など我々がレッスンからもなかなか得るのは難しい、

ロマン主義の音楽の核心をこの日の彼らの演奏から聞くことができた。

それはどんなにスゴい作曲法を用いた、壮大な、カタストロフィー的な音響の、レクイエム「的」音楽

からも得ることのできない、

風格とドラマを見せてくれたと思う。

そして彼らにとってそれは決して演じているもの=ドラマ、などではなく、自然と身に付いていたものであり、

だとしたら

彼らの心境、負ってきたもの、今も負っているものに、やはり思いを馳せずにいられない。

大会パンフレットの、東北福祉大による自分たちの紹介文章。

『・・今年は東日本大震災により私たちの住む宮城県被災し、活動の休止も余儀なくされ、心穏やかでないときもありました。本日は、私たちを支えてくださっているすべての方々への感謝と、全国大会のステージで歌える喜びを胸に、客席の皆さまのために心を込めて精いっぱい歌います♪』

この文章にあるとおりのものを、確かに客席は受け取ったと思う。誤解を恐れず言うと、

金賞を得られるような音楽よりも、こういった音楽を聞きたかった、それだけ価値のあるものを頂いた

と客席のひとりとして私は感じた。

来週末、東北福祉大学混声合唱団は第40回となる定期演奏会を迎えられるそうだ。

願わくは、その時も、そして定演が終わり、団を卒業したあとも、

感謝と喜びを胸に、音楽とともに歩んで、杜の都仙台を

(かつてそうだったのと同じように)音楽で彩っていってほしい。

そういう若者の姿こそ、郷土が復興する姿そのものである、と信じたい。

終わりのない彼らのドラマを、これからも気にかけていきたい、

と思う。

出典:「作曲家・人と作品 シューマン音楽之友社)」

   「吉田秀和作曲家論集 4 シューマン(同上)」